なんとかならないかな…

愚痴にっきです

久しぶりに予定のない土曜日です。

 明日からはまた何やかんやあるのですが、今日は予定がない。洗濯して、まんがのプロット書こうかなと思う。

美術関連友人知人諸氏。ごめん、まだもうちょっとまんがの世界にいる。軸足を変え、うまく両側に体重を乗せられればいいのだけど、もそれがうまくいくまでがもうちょっと先になりそう。絵、実はまだ描くものがうまく見つからない。言っちゃえば、なに描いてもいいんだけど、ずっと一貫してやってきていたのが「今、目の前ににある一番現実味を帯びているもの」だったの。もの、というか心の中で大きく場所を占めている事象。それが私の「リアリズム」だったのね。だから2年前まで「娘」を描き続けてきたんだけど。ここへきてもういいかげん、子離れしないとだめだと思った。お互いのためにならない。

 

 この前、9月から11月頭まで2か月ずっと娘の家で過ごしてたんけど、その間、課題提出から自己推薦入試の出願から学園祭準備から入試まで全部二人三脚でやってた、これ駄目だろ。って思った。離れて気を揉んでるだけより側で私にできる事をやった方がいいと思ったけど、娘はだんだん「元々は自分でやりたかった事なのに、お母さんが側にいると無理矢理やらされてる感じになってしまった」って言うのね。私だって、自分のペースで動けなくて雁字搦めになって苦しかったし。なので受験終わったとりあえず離れようってなって、今は自宅に戻って無理矢理「心配するのやめよう」としてるところ。 

 

あいつ基本はいいヤツで、ただ思い込みが激しくて人の気持ちが二の次で他罰的で嫌なことからは徹底的に逃げまくり物事の優先順位が逆で身の回りの整理ができなくて物欲に限りがない、だけなわけだから、「信頼して放っておこう。」と努力してるところ。今も時々パニクりながら電話かけてきたり、金の無心をしてきたりするけど、適当にあしらっている。朝は自分で起きて自分で風呂にも入れて、1人で眠れているそうだ。一緒にいる時は2毎日時間かけて起こして、30分くらい風呂入る事を説得して、1時間寝付くまで添い寝を強要されていたのにね。夜間と休日は夫が側にいて、家事一切もやってないくれている。娘は夫には甘えないのだそうで。受験は一般入試に向けて準備する余裕が無いので浪人するそうだ。サークル運営と友人関係の悩みと卒業できる単位取れるかどうかだけでいっぱいいっぱいなんですと。

 

離れてしばらくは、あれは今どうなっている?これは一体どうするんだ?って気になって仕方なかった。今思うとしょっちゅうウザいLINEをよこして来た生前の母もこんな気持ちだったのかもって思う。学園祭と被ったので一周忌欠席したけど。

 

 それに伴い、「現実から一切目を逸らす」あるいは「新しい現実を探す」努力を積まなくてはならないわけで、当面はフィクションの中になるべく身を置く事で何とか持ち堪えている。現場からは以上です。

6月になると

 6月になると、4年前の中学2年で娘の不登校がはじまった月だなーと思うが、あれから体感的に10年くらい経ったような気がする。その間に起こった事、人から言われた事、私たちがやってきた事をまとめてみようかと思う。

 中2(2019年6月)娘が不登校になる。その前の5月の合宿あたりからクラスで浮いている、親友とうまくいかないなどの悩みを打ち明けられるが、授業中居眠りをしていた時に先生から指摘され、クラスの注目をあびた事が決定的なイベントとなって、教室に入れなくなる

→担任から言われた事「今学期に入ってずいぶん自分を変えようと頑張って、係活動に立候補したり、授業も部活も積極的だった。無理がたたったのだと思う。しばらく甘やかせてあげてください」

→言われた通りしばらく自由にさせると、お金の使い方が荒くなる。ゲームセンターやぬいぐるみ集めに大変な金額が投じられる。やむなく私の実家から10万円ヘルプしてもらう。それもあっという間に無くなってしまう。部屋がぬいぐるみに席巻されはじめる。生活の赤ちゃん返りもはじまる。お風呂、睡眠、食事すべて介助を要求するようになる。こちらがいう事を聞かないと暴言、暴力がはじまり、私が過労しはじめる。

→学校のスクールカウンセラーに相談をはじめる。お金の使い方、母子分離不安のこと、話は聞いてもらえるが助言はその都度娘は答えるが家に帰ると元通りになる。

スクールカウンセラーの勧めでメンタルクリニックを受診しはじめる(19年8月から)ASDの診断をうける

→期末テストまでには→夏休み明けには学校に戻れると言っていたが、なかなか復帰できないので、学校側から秋から適応指導教室に通う事を提案され手続きをする。バスで私が毎日送り迎えをしながら通い始める。最初は教室の前で中を見学する事からはじまり、次に私が教室まで入って授業に付き合うところから始まり、バスを降りてやっぱり無理と、帰ってしまう事や、教室前までついてやっぱり無理、という事が多かったが、一冬乗り越え、良い先生にもめぐまれ、なんとか新年度からは学校に復帰できると自分で言い出す。

 

2020年度

 浪費、暴飲暴食、不登校は続く。中3になるので家庭教師のトライさんにきてもらう事にする。テーマパークも週末のたびに通うので家計はカツカツの状態。何を言っても響かない。家庭教師も、数回に1回は「メンタルが保たない」と言い、途中で帰ってもらうことが多くなり、やがて退会した。

 

 時系列的にはどこにいれていいかわからないが児相、障害福祉課に相談をはじめたのもこの頃。

 

 催眠療法、瞑想療法をやってくれている民間のカウンセラーさんを近所に見つけて藁をもすがる思いで通い出す(6月)しかし真面目に先生の指導に従おうとしていないことが発覚して、カウンセラーの先生の怒りを買い、代わりに両親が通うように言われる。

→「本人がやる気を出すまで周りが焚き付けても無駄だし、先生でも親でも、周り無理を通そうとするのは周りのエゴ」だと言われる。まあそれはその通りだと思った。

ヒプノセラピーを受けて私のトラウマを発掘されそうになって逃げる。料金がべらぼうに高かったし。

 

 父娘で家で暴れて警察、救急を呼ぶ事数回

 

 ショッピングモールで暴れて警察を呼ぶ(私がおもちゃのおねだりに応じなかったため殴られ、階段から突き落とされそうになった)

 

→親戚からはスティグマになる、との理由で反対されるが、スクールカウンセラーのすすめで障害者手帳ゲット、ついでに自立支援も申請。利益のほうが多いと思った。公的な相談先は相談すると違う相談先を教えてくれるということを学んだ

 

 夏、私が心身の限界がきて、スクールカウンセラーの勧めもあって娘に入院してもらう。夫が入院先を必死で探してくれたがコロナ禍でなかなか決まらず、9月から私立の拒食症の子のための病院にかろうじて1ヶ月入ってもらい、私は医者の指示もあって両親の家でしばらく休み、やっとちょっと休めた。娘はブクブクに太って帰ってきた。前後して私もメンクリ通院をはじめる。

 

 退院後はもとのメンクリは「入院が必要になる患者さんは受け入れていない」という事で断られ、べらぼうに遠い県立の児童精神センターに通院になる。通院はいつも嫌がって2人で車に乗せてなんとか連れて行く感じ。

 

 中学3年の1年間は、担任の先生が非常に鷹揚で丁寧で優しく、放課後に家族3人で会いに行って話をして、それで出席日数に勘定してくれるようになる。しかし学校では明るい顔をしているが家では相変わらず。時々、登校するそぶりを見せるが校門まで連れて行ってやっぱりダメだと言って帰る日々。相談室、保健室までは行ける日も。ただ、たった一人の親友が、ほかの子と仲良くしていたり、帰りに一緒に帰ろうと誘ってくれなかったりしただけでメンタルが崩れる。

 

 並行して、進学先として郊外のリベラル系私立校を突然言い出す。適応指導教室で再会した小学校の先輩が強力に勧めてくれたから絶対そこがいいと。通学2時間かかるけど大丈夫?ときくがなんとか頑張って通う、というので、現地での進学相談会通い、専願での授業入試を通じてなんとか合格内定ゲット

 

 秋、義父の再入院をきっかけに夫婦仲がギクシャクしはじめる。夫も落ち込み、それを私に当たるようになる。私はネットで会う人会う人に愚痴を言ってしまうようになり、そのタイミングで離れて行く人が多くなってさらに状態が悪化する。

 

2021年度

 16歳になるのを契機に児童精神科から一般の精神科へ通院先を変える必要があったが、紹介された病院がクソみたいに評判悪いところ。(今もそこ)

 

 高校に入学を果たすが、通学は同伴してと言われ、最後の乗り換え駅まで毎日付き添うことになった。娘は通学定期だが、付き添いのための割引はないのかと念の為に駅で訊いてみるが、ないのだそう。やがて一つ前の乗り継ぎ駅までになり、そのうち、駅まで、でオッケーになる。毎朝4時起きで弁当を作り、長時間かけて起こして6時半の電車に乗せるのが難事業。帰りは午後7時頃になる。娘自身、思っていたより通学疲れがあるのはわかった。

 

 友達がやっとできるが、友達との仲もあれこれ疑心暗鬼や嫉妬を絶えずうったえ、それが原因で初夏ごろから行きしぶりが始まり、担任の先生に会いに学校まで行って相談すること数回。

 

→一計を案じ、3人の友達連中とはツイッターDMを通じて私が密につながる。色々経緯や話をきいてもらい助かる面も色々あったが1人はあまりの凄惨さに自分もおかしくなってしまい、その子のお母さんからストップがかかって、私、平謝り。彼女は「適正な距離」を保つことにしているが、ほかの友達はまだ繋がってくれている。その後友達の間では娘は「頼りになる人」ポジなのが発覚する。規範意識へのこだわりも強いのでそうなるのはわかるけど、表裏ができるので無茶がつのる。

 

 夏休みに単発のアルバイトを経験してみたいというので、人材派遣の会社に登録。接客は無理だというので倉庫作業を1日経験させてみたら「辛かった。人の指示がわからなくて、訊くのもいやだった。寒かった。もう二度とバイトなんかしたくない。」というので、その時点から今までアルバイトはしていない。

 

2022年度

 春から満員電車の通学が「無理」になる。曰く「おっさんのにおいに耐えられない」

→遅刻、欠席が増え、前日に学校近辺のホテルに泊まる(!)などを経て、駅前のスクールバス乗り場徒歩3分のアパートを見つけて6月から借りることになる。家賃5万。夫が同居して、そこから通勤しつつ身の回りのこと一切も引き受けることになる。娘は家事一切をやらない。

 

 私は少し元気を取り戻す。それらの間に、義父が亡くなる。夫は義父の死因を娘のせいにしている。周りがいくらそうではないと言ってもそのレッテルが今もとれない。娘、リスカが始まる。何度辞めさせようとしてもやめず、警察呼ぶ。

精神科の診察室でもカミソリの件で大立ち回りの末、通院をやめてしまう。夫が代理で通院をしている。

 

 サークル立ち上げをする。着ぐるみ制作に打ち込む。

 

 ムギが腎臓を壊す。夫が八つ当たりで怒鳴って膀胱炎で血尿を出したのがきっかけ。ほぼ生涯、1週間に2回の点滴治療を必要とするようになる。ムギ、恐怖から赤ちゃん返りがはじまる。お母さん子になってしまう。

 

 夏休み、娘は仲良しグループ4人で宿題合宿、ディズニー行き等を楽しむが、その結果、メンタルが大変なことになる。仲が深まるだけ同時に募る無茶苦茶な理由の嫉妬心と劣等感のため。リスカがカバー無しのカミソリに代わり毎日血だらけになる。夏休み明け、オーバードーズがはじまり3日置かないでラリって救急搬送。

医療保護入院2ヶ月

これが正しかったのかどうかは今でもわからないけど、これやらなかったら今もカミソリと風邪薬を探しては捨てる生活が続いていたと思う。

 

 その間、10月後半、私の実母が事故死。実は事故死を疑っている。感覚的に。夫が誰に言われても自分の父親の死因を娘のせいにする事に囚われているように私も母親は自死なのではないか、という事、その理由の半分は私じゃないのか、という事を心の中から拭えないでいる。きょうだいは葬儀社の霊安室に日参していたが、私は死んだ母の顔を葬式まで見る気になれなかった。気持ちの整理はまだついていない。

 

 娘、退院後、進級単位が危なくなって2月にはリスカ再開が発覚して、それからはマメに娘の家に行くようにしている。しかし近くにいるのは2〜3週間が限度という事が自分もわかってきた。近づきすぎると八つ当たりや激昂がはじまり、離れると自傷がはじまる。単位は尻叩きと手伝いを経てようやく間に合い、進級はできて一安心と思いきや

 

 2月に「美大に行きたい」と言い出す。卒業後はサブカル系の専門学校にでも行ければいいかなと思っていたのが、「人生に妥協はしたくない、サンリオに就職したい、だから美大にいきたい」とのこと。

 

→行きたいと言うんなら、止める理由はない。とアパートの至近距離で小規模な画塾をやっている先生がいたので門を叩いてみる。大変良い先生で、発達障害の子も何度も指導してきたというので、おまかせしてみようと思った。

 

 数週間で「デッサンつまらない」と言い出し、画塾にほとんど行けなくなる。

→その時期あたりから、アラームでの朝起きが不可能になる。仕方なく朝、起こすためだけに始発で往復するようになる。早朝からの7時間がそれに費やさせるようになる。

 春休みだったか、一度、私が我慢の限界を迎え、画塾の前で行く行かないで大げんかして交番からお巡りさんがきて画塾まで同行してもらった。しかし10分目を離した間に逃亡。捜索願いを出す。ディズニーランドで発見される。夫のクレカから金を引き出していた。

 

今年度

 4月からは基本私が同居、ダウンしたら夫が交代、のペースに移行。朝、起こすのは私一人では無理になりつつあった、仲良しグループの中の男の子が手伝ってくれることになった。バイド代を払っている。

 

→昨年訪れてみた美術系進学相談会で、着ぐるみを油彩科の総合型入試に作品として持ち込んでいいよと某美大教授が言ってくれたので、受験はそれに賭ける事にしてみたが、画塾に着ぐるみ制作材料、道具いっさいを持ち込んで、画塾の先生も、好きな時間にきて好きなだけ作業してもいいよ、と合鍵まで渡してくれた。それでもなお、行き渋りが続く、どうしてかときいてみたら

「最初は行きたいと思っていた場所なのに、お母さんが無理強いをするから『行かなければいけない場所』になってしまったので、行く気を無くした。『大丈夫だよ、やってみたらできるよ』みたいな、綺麗事をならべた、お母さんの『応援』ももううんざりだ。」

「本当は大学行きたいわけじゃない。でも卒業してもニートはダメ、ってお母さんが言うから、仕方なく大学行くって言ったんだ。働きたくないのが本音だ。」

 

→そこまで言われたらもうどうすればいいかわからないよ……というわけで、昨日からまたちょっとだけ休息のため自宅にもどっている。娘のアパートには夫が行っているが、娘の世話について全然私の指示した事きいてくれない。

 

→ムギはかまってちゃんになり、私はまた疲れ果てている。一緒にいると消耗し、離れると不安がつのる。

 

 美大入試は私が無理に勧めているのではなく本人の希望だった。モラトリアムに使えるほど美大生の生活は甘くないのも知っている。浪人するのもべつにいいと思ってるけど、それもメンタル的には辛いだろうと思う。夫みたいに突き放して育てても、放っておいてもやる気を出す人じゃないというのはわかってきた。ある程度機嫌の良い時を見計らって尻叩きは必要で、本人もそれを求めているとわかる時がある。ただ時期と機嫌を間違うと地獄になるし、すごい慎重さとテクニックを要する。私のほうが疲れていると扱いが粗雑になったり判断ミスが増えたりしてしまう。今はリミッターをこえているところ。夫は家事以外何も関わらないようにしているから、娘からは「放置されてる」と感じているらしい。

 

 浪費癖は止まず夫のクレカから金を引き出すのは夫が何度トライしても止める方法がわからない。娘のスマホからクレカ情報を消してもクラウドに残っているらしくていつのまにか復活している。今のところ黙って使うことはないけど、私に「つかっていい?」と迫ってきて、イエスと答えるまで絶対に引き下がらない。それで「私が良いって言った」が既成事実になると思っている。ずるいと思う。昨日も人形の洋服代だけで15000円持っていかれた。これでバイトしたくない。卒業旅行USJ行きたいって言ってる。考えたくない。

 

 今年は30年以上休まなかった公募展への出品を初めて休んで娘のサポートに専念する事にした。「そこまでしてるのに!」という気分も否定できない。

 

 ここまでの話のご意見ご感想、アドバイスがあればぜひコメントをお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

話は盛っていない

  ブログを読み返してみて3年前に比較するとだいぶ状況はよくなっているのではないかと思う。

 2月あたりから、娘のアパートで2ヶ月をほぼ一緒にすごし、課題を手伝って進級させ、進路の相談をし、画塾に通わせ、やがて先々週の日曜についに活動限界がきたので夫に泣きついて交代してもらった。GW明けからまた交代する予定。健康状態も少しよくなってきた。高校3年になって、学校で褒められて自信をつけるということが何回かあったのが嬉しかったらしい。友達以外に学校へ行くモチベができてとても結構なことだと思う。無理しないでいいんだよ。とは言ったけど、本人が「人生に妥協したくない」と言うので、大学受験をめざしている。今年でなんとかうまくいくといいなと思う。

 あまり長くいっしょにいてはお互いうまくいかなくなるのはわかった。まずねこ達と私とが、そばにいることを本当にお互いに幸せを感じている。しかしねこも、日本語でしゃべったら大げんかになりそう。という話を獣医さんとして笑った。

 

 

 それと、もう半年になるが母の死について自分の中で何にも咀嚼できていないことがわかった。ふだんは、ああ、最近連絡ないな、うざったくないな、くらいに思っている。そして毎晩母がまだ近くに居るユメをみる。目が醒めて、もう自分は誰からも護られる立ち位置ではないのだという事にいちいち気がつかされて絶望する。母を許していない。

 

 ひとりぼっちが楽しい。寂しい。苦しくない。

 ヒトと自分、ヒトん家と自分の家を比べることをやめられたのはとてもイイ事だったと思う。

 

 そのほか特筆する事と言えば、相変わらず絵が描けてないのには深刻に困っている。ヒトの絵を見ても、かつてはギュッと心をつかまれる事があったのに、今は絵の後ろにいるヒトの事ばっかりしか考えられない。もっと何かあったはずなんだ。思い出せない。自分を軸とした前後左右上下が掴めない。ものごとの立体感が失せている。

カサンドラ

 愛する人から無理難題を押し付けられ、無理だというと激昂され、やむなく交換条件を約束すると、悉く、ほんとに100%近くが反故にされ、それを詰め寄るとまた激昂するか、自虐の底に沈んで岩のようになるかで、じゃあ私はあなたにとって役立たずなので、去ってもいいですか?死んでもいいですか?と問うと「必要だから居てくれ」と言われ。

 かたや外側の人からは、「いつかは努力が報われる」と言われたり「そんな人にもう構うのは辞めろ」と言われたり、「絶望を共有しろ」と言われたり。どうすればいいんですかね。私の努力も献身も自己犠牲も、希望へつながると信じてやってきたことを、私以外の人間にことごとく違う、と言われる。とりあえず後ろ髪引かれながら、無責任の誹りはじゅうぶん覚悟の上で、逃げてきた。もう、保たない。

 

いつも同じような事ばかりでごめんね。

娘育成

 ども。久しぶりに川口の家に帰っています。進級に向けて尻叩きの為、3週間くらい娘の家に泊まり込んでいました。

 進級のための課題を「やらなきゃいけないことはわかっているけど終わりが見えなくてどうしてもできない。」というモードに入っています。手をつけさえすれば楽になるんだよ、と励ましていますが「お母さんそんなにわたしのこと嫌いなんだね」と1000回聞かされたようなことを言ってきます。ただ落ち込んでいる様子なら同情もできますが、「ウマ娘」やりながらです。私の母だったらこんな時スマホ取り上げて破壊してただろうなー、という気持ちがふつふつと湧いてきましたが、そうしない私、優しい、と思って沈黙していたら「ほらそうやって自分の都合の悪い時だけ黙り込む。そういう所だよ!」「ウマ娘、さっき3000円課金許してくれたら課題やるって言ってたよね。そのあと、育成して、それ終わったら課題やるって言ってたよね。で、育成終わったんだよね。」
「どうしてそんなにいじわるが言えるの?そうやってやれやれって言われるからやる気がなくなるんだよ!」


 今日は一日ピューロ行ってます。疲労で身体が動きません。彼女の言った、動きたくても動けないってこんな感じなのかなぁと思います。

 来年度はオットに代わって平日娘宅住みになりそうです。オットが「こんなじゃもう俺仕事辞める」といいだしたので。

始まりと終わり

 金曜日の夕方、80歳の母がベランダを掃除しているうちに、誤って転落し、12階下の植え込みで亡くなって発見された。

 

 私は知らせを受けた後、翌土曜は予定していた通り、娘の学校の文化祭に出かけ、娘が立ち上げたサークルの催しに、入院のため穴を開けた娘に代わって奮闘してくれた娘の友人達によく礼を言ったのち、夫にLINEで顛末を報告をして、父と母の住む町に向かった。義妹が車で駅に迎えに来てくれて、警察署から、母の遺体と共に葬儀社まで出向き、家族と葬儀に向け夜までかかる長い長い打ち合わせとなった。

 

 その間にも娘からは恒例となった電話攻勢が始まり、ずっと「退院させてくれ」と泣かれるのを宥め続ける。夫に相談したところ「電話出るの辞めるという選択肢もあるよ」と言われ、なぜそれに気が付かなかったのだろう、と思った。それから先、娘からの電話は取らないことにした。

 

 父も、ほかの家族たちも、悲しさを持て余して異様な言動や行動をする。私は、そこに気持ちが追いつかずに困惑している。「悲しいね」とか「びっくりしたよね」とか、「ありがとう」とか、その場その場で考えて答えている。私が精一杯の慰めを言おうとしても、しばしば「いや、そうじゃない」「まだ、そんなふうに考えられない」と言われ、さらにストレスを感じる。娘の主治医からは、退院まで祖母の死を言わないようにと言われる。

 

 妹、弟たちはそれぞれ家で子ども達が待っているから家に戻り、私は今、父親と洗濯をしたり食事の用意をしたり、遺影を(昨今は葬儀にスライドショーがつくから沢山の写真を選ばないといけない)過ごしている。お通夜は水曜日だ。

 

 母にマヨネーズやラップやだしの素のありかを訊きたいのにきけない。電話が通じないようなものだ。不便だと感じる。

 

 昔昔、夫と私が恋人同士だった時代、遠距離恋愛だったため、デートできるのは月に2度程度だった時代が2年続いていた。そのデート中に、母は何度も何度も電話をかけてきた。そして私は、どんな時でも、文字通りどんなに電話に出るべきではない時と場合でも必ずその電話を取っていた。その時も「電話をとらないという選択肢」を思いつくことができなかったのだ。

 

 「母を失うということは自分のルーツを失うようなものだ」と映画の台詞で聞いた憶えがあるが、何の映画だったか思い出せない。ただ、最初の知らせを聞いてからずっと、

「これでもう、母の言う事をきかないで済むんだ」「母の思惑を気にしないで済むんだ」

という解放感のほうが、悲しさや寂しさよりまさっている。こんがらがって絡まっていた根から、やっとほどかれたんだ。という安心に包まれている。

 

 娘にも、いつか私への執着なんて忘れて、自由になってもらえたらいいのになと思う。

「娘にどう思われるだろう」

「母にどう思われるだろう」

が取っ払われて、だいぶ身が軽くなった気がするが、周囲の人達とうまく噛み合わず色々困っているのが、今の状態だ。あるいは、葬式が始まったらほかの人間みたいに泣いたり悲しんだりできるんだろうか。

 

 

ほんとうになんとかならないかな

 まあ、ドタバタしているうちになんと10月になってしまいました。

 お名前をうかがってもいいですか?

「タカハシレイナです。はしごだかのたかです。」

「橋本先生!」「お母さん!」とよばれているときより、もうひとつの名前(ハンドルネーム)の「CabinEssence(略称シーイー)さん」とよばれているときのほうが気持ちが落ち着けると言うことがわかりました。自分でつけたはじめての名前だし。

 

 娘の件ですが、夏休み中に宿題ができない+友達に会えない+将来への不安+友達への理不尽な独占感情、ですっかり病みが高じてしまい、しかもカラオケでやたら病気になっただの死んじゃうだの世界が滅びるだののボカロ曲(そういう歌詞の歌だけでもものすごい数がある)を歌いまくり、リスカは止まないより強力なカミソリを使うようになる。新学期に入ってからは比較的まともに学校に行っていたもののどっかで聞き齧った知識からの市販薬の大量服用で4日で2度救急搬送されたあげく夫の強固なプッシュで近所のものすごい評判の悪い病院に医療保護入院となりました。それが一昨日の話。部屋を整理したら隅っこから市販薬の残り、空箱、貝印カミソリ100丁くらいがあとからあとから出てきました。

 

 帰りの電車で一度泣いたあとは感情がジェットソン。昨日はちゃんと予定してた同人誌即売会サークル参加できたし、アフターで爆発することもなかった。

 

 学校の先生と病院の先生と看護師さん。私たちよりうまく娘を生かしてくれるの?ほんとうに?救急車の中での娘の顔がまだずっと私を見ている。「私って悪い子?」と訊く顔は赤ん坊の頃と大きさ以外ほとんど変わっていない。「あなたは悪い子ではない。弱い子だ。弱い子は強くならなくては生きていけない。だからこれから故障を直しに行くのだ」と伝えた。

 

 これから最短で2ヶ月娘と会わない。(通信もかなり厳しい制限がかけられている)そんなに長く会わないことはこの17年で初めてだ。ほっとしている自分と、罪悪感でズタズタになっている自分が引き裂かれている。

 

私たちは戦争をしている。泣いても嘆いても。そんな事に私を耽溺させないでください。