なんとかならないかな…

愚痴にっきです

始まりと終わり

 金曜日の夕方、80歳の母がベランダを掃除しているうちに、誤って転落し、12階下の植え込みで亡くなって発見された。

 

 私は知らせを受けた後、翌土曜は予定していた通り、娘の学校の文化祭に出かけ、娘が立ち上げたサークルの催しに、入院のため穴を開けた娘に代わって奮闘してくれた娘の友人達によく礼を言ったのち、夫にLINEで顛末を報告をして、父と母の住む町に向かった。義妹が車で駅に迎えに来てくれて、警察署から、母の遺体と共に葬儀社まで出向き、家族と葬儀に向け夜までかかる長い長い打ち合わせとなった。

 

 その間にも娘からは恒例となった電話攻勢が始まり、ずっと「退院させてくれ」と泣かれるのを宥め続ける。夫に相談したところ「電話出るの辞めるという選択肢もあるよ」と言われ、なぜそれに気が付かなかったのだろう、と思った。それから先、娘からの電話は取らないことにした。

 

 父も、ほかの家族たちも、悲しさを持て余して異様な言動や行動をする。私は、そこに気持ちが追いつかずに困惑している。「悲しいね」とか「びっくりしたよね」とか、「ありがとう」とか、その場その場で考えて答えている。私が精一杯の慰めを言おうとしても、しばしば「いや、そうじゃない」「まだ、そんなふうに考えられない」と言われ、さらにストレスを感じる。娘の主治医からは、退院まで祖母の死を言わないようにと言われる。

 

 妹、弟たちはそれぞれ家で子ども達が待っているから家に戻り、私は今、父親と洗濯をしたり食事の用意をしたり、遺影を(昨今は葬儀にスライドショーがつくから沢山の写真を選ばないといけない)過ごしている。お通夜は水曜日だ。

 

 母にマヨネーズやラップやだしの素のありかを訊きたいのにきけない。電話が通じないようなものだ。不便だと感じる。

 

 昔昔、夫と私が恋人同士だった時代、遠距離恋愛だったため、デートできるのは月に2度程度だった時代が2年続いていた。そのデート中に、母は何度も何度も電話をかけてきた。そして私は、どんな時でも、文字通りどんなに電話に出るべきではない時と場合でも必ずその電話を取っていた。その時も「電話をとらないという選択肢」を思いつくことができなかったのだ。

 

 「母を失うということは自分のルーツを失うようなものだ」と映画の台詞で聞いた憶えがあるが、何の映画だったか思い出せない。ただ、最初の知らせを聞いてからずっと、

「これでもう、母の言う事をきかないで済むんだ」「母の思惑を気にしないで済むんだ」

という解放感のほうが、悲しさや寂しさよりまさっている。こんがらがって絡まっていた根から、やっとほどかれたんだ。という安心に包まれている。

 

 娘にも、いつか私への執着なんて忘れて、自由になってもらえたらいいのになと思う。

「娘にどう思われるだろう」

「母にどう思われるだろう」

が取っ払われて、だいぶ身が軽くなった気がするが、周囲の人達とうまく噛み合わず色々困っているのが、今の状態だ。あるいは、葬式が始まったらほかの人間みたいに泣いたり悲しんだりできるんだろうか。